一中賛歌、ここからノーベル賞が

寺岡内科医院 寺岡院長201912
「見晴るかす摂津北野の~、日影佳き千里のやまに~、涼々の風は身を切る~…」これが私の卒業した吹田第一中学校をたたえる賛歌です。

卒業生吉野彰さんがノーベル賞をもらわれます。
世界中どこへ行ってもリチウムイオン電池のないところはないのですから、発明者のひとり吉野さんが受賞するのは当然といえば当然です。 今や日本人のノーベル賞受賞者は27人となり、自然科学分野での世界ランキングでは一位アメリカ、二位イギリス、三位ドイツ、四位フランスについで五位日本で、文字通り大国の実績を証明したといえます。言葉のハンディーを考えれば実によく頑張っている日本です。私達が小さい頃はノーベル賞受賞者といえば湯川秀樹さんただ一人で、遠い遠い世界の話でしたが、その後朝永振一郎さん、川端康成さんと次第に増えてゆき、どれほど国民に勇気と自信を与えてくれたでしょうか。国力の反映ともいえるでしょう。

ノーベル賞を獲るような偉人の共通点は?と問いかけた作家がいました。「それは美しいふるさとがあることです。そんな環境だからこそ大自然からの啓示をもらえるんです。」ということでした。なるほどと感心したものですが、その言葉通り美しいふるさと千里山からノーベル賞受賞者が生まれたのです。同じふるさとを持つ後輩として無上の喜びです。

当時、千里山駅は終点で、周辺の住宅と公団住宅が開発の最前線でしたから、そこから先はほとんど人の手の入らない竹やぶ、雑木林ばかりで、少し歩けば野良道、たまに狭い田んぼ、池、小川、雑木林、竹やぶがあるばかりで、子供にとってはそれはそれは楽しい楽園でした。フナつり、トンボ獲り、竹の子獲り、野球に興じたあの頃の光景は今も忘れることができません。今では巨大スーパーが跡を占めている旧吹田第一中学校は人里離れた山の中でした。予算がなかったのでしょうね、所々ガラスが破れた教室には寒風が吹きすさび、教壇のプリントが風で吹き飛ぶので仕方なく窓に傘を立てかけて授業という光景もありました。冬眠中の蛇を連れだしたり、春には田んぼのおたまじゃくしと戯れ、近くの果樹林に忍び込んでスモモを盗んで叱られたり、今から思えば実にのびのびとした学校生活でしたが、サラリーマンの子弟が多い一中の子はお行儀は良いけど迫力が足りない、というのも一方の定評でした。そこからのノーベル賞です。地元にとってどれだけ誇らしいことでしょうか。一中、北野を通じて1年後輩の私は、吉野さんと4年間同じ学校に通ったことになりますが、残念ながら当時の印象はありません。でも友達の中にはよく知った方もおられて、いつもニコニコされていたのが印象だそうです。

こんなことをお話させていただきますと、私は何もしていないのに、必ず「すごいねー。」といってもらえます。悪い気はしません。確かに校門に「吉野彰さん、ノーベル賞受賞おめでとうございます。」とあったら、「へぇー、ここから!すごいね。」と誰でも言うでしょうね。世界から光明が当てられる幸運がすごいのでしょう。それだけでも吹田一中、北野高校、京大、阪大、大阪、日本に幸せをもたらした吉野さんの功績はすごいということです。

もう一人、大阪に関係が深いノーベル賞受賞者がおられますね。iPs細胞の山中伸弥教授のことです。
三国本町で皮膚科を開業されている塩野先生は大学の同級生だったそうですし、奥様は淀川区で皮膚科医としてご勤務されているということはご存知のことでしょう。それだけノーベル賞にも親しみが持てる時代になったということです。

日本ではノーベル賞を獲得した研究者は一生名声が保証されたのも同然ですが、アメリカではノーベル賞受賞者がごろごろいるという研究所もあって、ノーベル賞の名声は3年しか続かないと聞いたことがあります。研究所では賛辞とともに「彼はたまたまノーベル賞をもらったけれど、実は裏にもっとふさわしい人がいるんだよ。」「時流に乗れたからだ。」というような裏話も羨望とともに交わされたりするものです。若い頃、阪大の免疫グループで世界の超一流といわれる学者の様々な評価を聴かせてもらったものです。そんな生々しい交流の中から「あの人でも貰えるのなら、ひょっとすると自分にも可能性が…。」という野心も生まれるものだと思います。やはり偉い人を近くに感じて過ごすということは大変幸運なことだと思えます。
 
今回の受賞を機に山中先生、本遮先生、吉野さんを目標にして、ノーベル賞を目指す若い研究者がもっともっと生まれることを切に願っています。関西にはそれを醸成する美しい自然、歴史、学問、芸術、伝統、文化があふれているのですから。